墓場から芽生えるいのち

事故で息子を死なせたドライバーに、イーサーン流の「交わりへの歓迎」を表すトルーマン・ハーツラー氏. 写真 : Carol Tobin

タイの大地にアナバプテストの花を咲かせる

「タイは宣教の墓場だ。」タイにやって来た宣教師たちは、何十年もこう言われ続けてきた。しかし、神は別の物語を用意していたようだ。その物語はようやく実を結び、しかもそこにはアナバプテストの姿もあったのだ。

まかれた教会の種

今から201年前、アン・ジャドソン(アメリカ人宣教師アドニラム・ジャドソンの妻)は言葉を習得し、ビルマにいたシャム(タイ)人に福音を伝えた。12年後の1828年、最初のカトリック司祭の渡来から260年たって、最初のプロテスタントの宣教師がタイにやって来た。

カトリックであれプロテスタントであれ、1800年代の宣教は信じられないほどの献身と忍耐の連続であった。宣教師は、こんにちでも依然として強固な壁に行く手を阻まれた。仏教とバラモン教の融合を基盤とする強固な社会の結束はほとんど入り込むすき間もなかった。人々に深く根差す自然崇拝も、改宗をためらう理由となった。タイの人々は、ちょうど巧みな外交で抜け目なく植民地支配の危機を退けてきたように、「タイ人であることは仏教徒であること」というアイデンティティの自覚を決して譲り渡そうとはしなかった。

1880年、神は再び、ビルマに据えられた基盤を用いてタイを祝福しようとした。宣教師に連れられたカレン族の伝道師3人が、ビルマからタイの村にやって来た。なんとその村の男は前の

晩、神の言葉を携えた3人の教師の夢をみたので、一日中待っていたというのだ。その村のカレン族500人が、悔い改めて神を信じたという。

1900年代になると、一方で自由主義神学、他方で一面的な福音理解という新しい難題が持ち上がった。教会の組織化が進み、長老派の長年の働きによって設立されたタイ国キリスト教団(CCT)などに結実した。宣教師は教育施設も創設したが、社会の状況は依然として福音の証しには抵抗を示していた。1900年代後半になると新しい動きが起きる。中国から退去させられた海外宣教師フェローシップ(OMF)のワーカーが流入し、タイ北部の「山岳部族」に宣教する新しい拠点となった。また、ペンテコステ派もタイで影響力を発揮しはじめた。1980年代には、タイ中央部の人々が、急成長する土着の教会運動の典型とされた。

アナバプテストの初期の宣教

タイにおけるアナバプテストの活動は1960年、メノナイト中央委員会(MCC)とのつながりから始まった。それから15年かけて、MCCはPAXワーカー(海外で代替奉仕するアメリカ人良心的兵役拒否者)をタイに赴任させ、手工芸品を輸出してアメリカで売る事業を立ち上げた。

MCCがこの地域での活動を活発化させたのは、ベトナム人が「アメリカ戦争」と呼んだベトナム戦争期である。1975年、MCCはCCTと協同で難民支援をはじめ、農業技術指導者を赴任させる可能性を探った。MCCとしては、CCTがタイ社会におけるキリスト教会の役割として、当時は強調されていなかった人権状況への働きかけに取り組んでほしいという思いがあっ

た。MCCはその後数年間タイにとどまった。カンボジアでは大虐殺が起こっていたが、1977年のMCC現地リポートには「いま起きていることは…確認できない」としか記されていない。1979年には恐るべき事態が明らかとなり、タイに逃げ込む難民の数が急増した。MCCは難民キャンプと再定住支援で重要な役割を果たし、ラオス、モン、カンボジア、ベトナムの難民を援助した。

当時のワーカーは、リバイバルの年月だったと振り返る。「言葉と行い」がともに手を携え、神が不思議なわざを加えてくださった、と。こんにちタイの教会を導く多くの者が、あのときキャンプで奉仕するワーカーの情熱から言行両面の証しを教えられたという。難民支援と、ビルマ情勢に関わる平和教育や人権問題への取り組みは、MCCが1995年に事務所を閉じるまで続いた。

その間に、他のアナバプテスト宣教団体が、タイでの開拓伝道を模索し始めていた。1986年にはキリスト兄弟団(BIC)の世界宣教団が視察旅行を行い、1987年には宣教師夫婦一組を派遣した。この夫婦はバンコク郊外の専門学校に職を得た。宣教師の自活モデルを採用したのは、異文化交流を通して福音を伝え、弟子の道を通して現地の指導者を育成することをめざしたためである。

1990年には、イースタン・メノナイト宣教団(EMM)がワーカーを派遣して宣教の可能性を探った。1992年にはトービン夫妻が10年の任期で赴任し、開拓伝道チームも随行した。1995年には、タイ農村部のもっとも宣教が遅れている地域の一つ、イーサーン地方に拠点をおいた。こうして作られたライフ・エンリッチメント教会は、小グループの礼拝や熱心な地元の指導者など、土着の文化によく配慮した教会を形成し、別の村や地域に宣教のわざを広げている。

国際メノナイト・ブレザレン宣教/奉仕団(現MB宣教団)も同様の視察を1991年に行い、最初のワーカーがタイ北部のナーン県でクムー族の人々への宣教を決断した。シュミット夫妻と伝道チームは村落伝道、教育、農業開発に重点をおいた。継続的な働きにより、タイ・ラオス国境地域のクムー族の人々が、キリストを信じるようになった。

根を張る働き

MCCが何年もかけてCCTと良好な関係を育んだのに対し、これら新しいアナバプテスト系組織はCCTのもとで働くこととはならなかった。各団体は独自に新しい連携を作りビザを取得した。タイ福音同盟が結成され、タイ国内における開拓伝道を促進していく協力関係が作られた。EMMのグローバル・ミニストリー担当者デービッド・シェンクは、「共同体」を重視する立場から、EMMワーカーが他のアナバプテスト系団体との関係を優先するよう求めた。そのため、開拓伝道チームの指導者は頻繁に会合する機会を設け、祈り合い励まし合うこととなった。集まってリトリートを行うことが慣例となり、新たに赴任するワーカーたちを歓迎する場ともなった。

1998年、ジェネラル・カンファレンスの宣教団(COM)が、EMMのチームと協働するためにカナダ人とラオス人の夫婦を派遣した。最初の任期を終えたあと、夫妻はカナダ・メノナイト教会のワーカーとして、イーサーン地方の別の場所で独自の開拓伝道をはじめた。

2001年1月には、チーム2000が来訪した。10年間の任期を受け入れたメノナイト・ブレザレンの3組の夫婦で、バンコク南部で孤児院と教会を新設し、現在は28人のワーカーがさまざまな地元の人々とともに働き、タイの数カ所に教会共同体が生まれている。

同じ頃、BICの新しい指導者としてマイヤーズ夫妻が赴任した。EMMの招きと勧めにより、ほんの50キロ離れたウボンラーチャターニー県の首府で活動を開始した。近接地域での活動は、宣教のビジョンを共同で発展させるのにも、困難なときにチームが互いに助け合うのにも役立った。

他方で、メノナイト宣教ネットワーク(MMN)はイーサーンの別の所にワーカーを派遣し、ローズデール・メノナイト宣教団(RMM)はバンコクでの活動を強化すべく、RMMが長年宣教してきた中米から第二世代の指導者を送り込んだ。ヴァジニア・メノナイト宣教団も近年、ライフ・エンリッチメント教会と提携して、イーサーン出身者への宣教拠点をバンコクに設けた。保守的なグループは、アナバプテストの宣教訓練学校「グローバル・オポチュニティ学園」(IGo)をチェンマイに設立した。そんなわけで、少なくともチェンマイでは、アナバプテストといえば福音宣教への熱意はもちろん、かぶり物と大家族でも知られている。

これらの団体すべてに共通するのは、弟子の道を非常に重視していることである。彼らは豊富な経験を通して、聖霊が働いて癒されること、悪の束縛から解放されることがどういうことか、理解を深めている。

関係の構築

アナバプテスト系諸団体を一つにまとめてはどうか、という議論は折にふれて提起されたが、実態にそぐわない大きな組織に縛られない方がいいということになった。そのかわり、連携し合う関係を継続することにほとんどの団体が合意している。

チームの指導者らがアナバプテスト連絡会議として年に2回集まるほか、タイとラオスのアナバプテスト系教会員が集まる会合が3つ設けられている。長年にわたる、文化や社会・経済的な分断や、アナバプテスト/メノナイトの世代的な「教会文化」の違いを乗り越えて、人々がともに集い心を通わせ合うさまは素晴らしい。そんな集まりが、『メノナイト信仰告白』やパーマー・ベッカーの『アナバプテストのクリスチャンとは何か』など、アナバプテスト関連文献の翻訳を後押しした。国際メノナイト・ブレザレン(ICOMB)の信仰告白もタイ語に翻訳された。最近では、初期のアジア宣教や再洗礼派の殉教者の物語を収録したリチャード・ショーウォルターの著作がタイ語で読めるようになった。

消費至上主義と経済繁栄に偏った福音理解が人々に受け入れられやすい昨今、こうしたアナバプテストの信仰理解は貴重である。

アナバプテストのアイデンティティ

多年にわたる健全な関係とリソースが、アナバプテストのアイデンティティを育む上で重要である。しかし、直接の実体験を通して得られるアイデンティティというものもある。

ウボンラーチャターニー県南部にあるライフ・エンリッチメント教会は、EMMのチームリーダーであったジョン・ハーツラーを交通事故で亡くすという悲劇に見舞われた。それは教会が、ゆるしに至る道を歩むという貴重な機会となった。教会の人々は何カ月もかけて福音を伝え、無謀な運転で事故を起こしたドライバーを諭した。その結果、ドライバーの洗礼式にジョンの両親が立ち会うことになったのである。彼は教会員らに温かく迎えられ、信仰をともにする家族の一員となったのである。

それから、教会ではトルーマン・ハーツラーを迎えて、アナバプテストの歴史を学ぶ集まりがもたれた。彼は、かつて祖先が、規則に縛られたり無気力になったりして、宣教のチャンスを逃してしまったという失敗について語り、しかし、苦難を耐え忍び、イエス・キリストという

唯一の土台(1コリント3:11)にこだわることで、目標が再確認され、神の招きに忠実に応える道がいつも備えられるのだ、と強調した。参加者は一人ずつ立ち上がり、「これこそ私たちのあるべき姿だ。どれほど苦しみ失敗しても、これがアナバプテストのあるべき姿なら、私たちもアナバプテストだ」と語った。まさに墓場からいのちが芽吹いたのである。

現地に派遣された宣教師を通して建てられた共同体だけでなく、現地の人々自身による宣教の流れもある。かつて難民としてアメリカに移り住んだモン族の人々である。その多くが米国メノナイト教会に加わり、モン族メノナイト教会宣教団を設立して、タイ北西部の山岳地帯にモン族のアナバプテストが与えられることを夢見て活動してきた。

2005年からは、北米の牧師やMMNのワーカーが本格的に派遣され、建築計画も進展した。そのため、長くCCTに加わっていた現地のモン族キリスト教徒は、次第に自らの神学がアナバプティズムに近いと感じるようになった。2016年には、CCTの教区として新たに「モン族第20教区」が設けられ、MWCに加盟することになった。ネルソン・クレイビルの言葉を借りるなら、「彼らは、非暴力を含むアナバプテストの教会理解を積極的に言明し広めたい」という気持ちから、加盟を希望したのである。

これらの教会によるさまざまな実践は、MWCにとってまさに賜物である。伝道の一環としての平和づくり、もてなし、信仰に基づく経済実践、分かち合いの精神、熱心な聖書の学び、指導者の育成などである。2017年4月には、MWCとMMNの代表も列席して、加盟を祝う催しがもたれた。

タイのキリスト教徒はいまだ総人口のわずか1.2パーセントにすぎないが、祝福を得てさまざまなアナバプテストの証しが今後も互いに連携し育み合って、かつては「墓場」とよばれたこの地に神が美しい復活のいのちを花開かせてくれるだろう。

キャロル・トービンは夫のスキップとともに、EMMのもとで1989年から2009年まで、タイでの開拓伝道と組織運営に従事した。現在キャロルはハリソンバーグ(アメリカ、ヴァジニア州)にて、ヴァジニア・メノナイト宣教団アジア地域担当者としてタイとのつながりを保っている。

団体名 Hmong 7th District of the Church of Christ in Thailand* タイ国キリスト教団モン族第7教区(※)会員数 1,733 1,733人教会数 23 23責任者 Pornchai Banchasawan ポルンチャイ・バンチャサワン
団体名 Khmu Mission クムー族宣教団
 会員数 39,250 39,250人教会数 430 430責任者 Phone Keo Keovilay フォーン・ケオ・ケオヴィレイ
団体名 Life Enrichment Church ライフ・エンリッチメント教会会員数 199 199人教会数 16 16責任者 Pastor Somchai Phanta ソンチャイ・ファンタ牧師
団体名 Life Enrichment Church ライフ・エンリッチメント教会会員数 199 199人教会数 16 16責任者 Pastor Somchai Phanta ソンチャイ・ファンタ牧師
団体名 Thailand Mennonite Brethren Foundation タイ国メノナイト・ブレザレン教団会員数 1,600 1,600人教会数 20 20責任者 Ricky Sanchez リッキー・サンチェス
(※)MWC執行委員会が2017年2月に加盟を承認。数字はMWC会員地図(2017年2月6日現在)による。出典:MWC会員名簿2015年版

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