福音の熱心なしもべ : アルゼンチン・メノナイト教会の歴史

The Argentinian Mennonite pastors institute met in La Esperanza de Bragado country house 19–21 September 2017. Photo courtesy of the centennial anniversary committee for Iglesia Evangélica Menonita Argentina (IEMA).

アルゼンチン・メノナイト教会(1917〜2019年)

私たち、アルゼンチン・メノナイト教会(IEMA)は、ジョセフ&エマ・シャンク夫妻とトビアス&メイ・ハーシー夫妻を(アメリカからの)最初の宣教師として迎えてから、ちょうど100周年を迎えます。かれらの働きは多くの人たちの人生をがらっと変えました。現在、国内各地にある50の教会と3600人の教会員は、その働きの生きた証です。

宣教師たちは4週間の船旅を経て、1917年9月11日にブエノスアイレスの港に到着しました。メソジストとバプテストの代表、アライアンス教団、アルゼンチン聖書協会らの出迎えを受け、相談や助言をもとに宣教の第一歩をふみだし、やがてブエノスアイレス州のペワホに拠点をおきました。

最初の1年半、かれらはアルゼンチンの国や人々、習慣、スペイン語を学ぶことに取り組み、訪問やフィールド調査を行なって定住地を決めました。さらに、ジョセフ&エマ・シャンク夫妻は、「わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」(黙示録3:8)の言葉のとおり、神に力と自信を与えられて、困難に向き合いました。

トビアス&メイ・ハーシー夫妻もまた、「それで…あなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(ローマ1:15)と使徒パウロが示したのと同じ熱意をもって、信仰と熱心を示したのでした。この聖句は仕事を始めたばかりの最初の宣教師の思いをよく伝えています。かれらはまさに、限りない決意をもって全国をまわる、熱心なしもべだったからです。

こうした働きはすべて、後から来た宣教師たちや、アルゼンチン人の牧師たちに影響を与えました。その中には、もとはアライアンス教団出身で忠実なプロテスタント(アルゼンチンでは福音派とよばれる)であるアルバノ&ケルビナ・ルアイザ夫妻などがいます。夫妻は積極的に通りや広場に出て、キリストが新しい真の生き方への希望であることを宣べ伝えました。

私たちは神に対して、またアメリカ合衆国とカナダのメノナイト教会の人々に対して、南アメリカへと宣教の働きを広げようと関心を示してくれたことに、感謝しています。

宣教100周年を祝う

こうして2017年9月16日、当時船が着いたところで現在はプエルト・マデーロとよばれる美しい住宅地の野外で、記念の催しが行われました。MWCのJ・ネルソン・クレイビル会長をはじめ、メノナイト・ミッション・ネットワークからジョン・ラップ、マデリン・マルドナード、リンダ・シェリーの各氏、地元のメノナイト教会の代表、近隣諸国のメノナイト代表やブエノスアイレス市の役人、18の教会代表、メノナイト教会員、運営にあたった牧師らが出席して行いました。

その日の晩には、地元の牧師や客人、来賓を交えて記念の会食も行いました。翌17日には、宣教師を派遣した教会の代表の臨席をいただいて、宣教記念大会を行いました。マルビナス・アルヘンティーナスのナルディニ市長には立派な施設を提供していただき、私たちは関係各位のご厚意を主に感謝します。私たちは引き続き、初代教会の人々や16世紀の再洗礼派の先人と同じ愛と犠牲と勇気をもって、主に仕えていきます。キリストとその支配を希望する福音を、主が再び地上に来られるまで、宣べ伝えていきます。

ペワホでの働きの始まり(1919年)

聖書協会の薦めによって、宣教をペワホから始めることが決まりました。神の言(ことば)を広めようと各地を巡回していた文書伝道者によれば、ブエノスアイレス

州の西部には伝道の働きが見られなかったからです。最初の宣教師は1919年1月21日に到着し、26日には最初の礼拝がもたれ、賛美歌「主よ、みもとに」が高らかに歌われた、とエルネスト・スアレスがアルゼンチン・メノナイト教会50年記念誌で述懐しています。喜ばしいことに、私たちは最初に回心した人たちを個人的に知っているのです。私たちの親類であるカバドーレ家の人々、とくにパブロ、アニタ、マリア、サンティナ、ファットーネのニコラサおばあちゃんなどです。これらの人々は信仰を忠実に守り続け、全力で主に仕えた人たちです。

西部の町への宣教の拡大

やがて、トレンケ・ラウケン、カルロス・カサーレス、トレス・ロマス、ブラガド、その他多くの町に福音が伝えられ、教会が建てられ、キリストの弟子による小さな集まりができました。さらに、幼稚園や救護所、児童施設が開設され、その後は印刷所もできました。

ペワホには聖書学校が設立され、その後ブラガドの町に移転しました。やがてウルグアイのモンテビデオに移されてメノナイト神学校となり、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイのメノナイトが学んでいます。この働きを大変な尽力で成し遂げたのが、ネルソン・リトワイラー宣教師で、彼は第二次世界大戦時にヨーロッパから避難した人々の定住事業にも関わっていました。避難民はウルグアイのモンテビデオに降り立ち、3つの居留地を作りましたが、彼らとの交わりは現在も続いています。

デルバート・アーブ教授の有用な研究によれば、アルゼンチンのメノナイト教会の歴史は4つの段階に分けられ、以下のように発展してきたと説明できます。

第1段階:宣教師による宣教活動の時期(1919年〜1954年)

第2段階:移行の時期(1954年〜1989年)。この時期には米国による宣教が終わり、外国人とアルゼンチン人が協働するスタイルに替わって、宣教団が以下の新しい原則を設けた。

(a) 自治(IEMA創設者の一人であるアグスティン・F・ダリノ牧師が参加して、新組織の憲章草案が作られた)、(b) 自給、(c) 宣教活動

こうして設けられた宣教計画は下記のとおり。

(1)パタゴニア・プロジェクト、(2)北アルゼンチン・プロジェクト、(3)中央地域プロジェクト、(4)コルドバ教会プロジェクト

第3段階:全国組織形成の時期

第4段階:組織改革の時期(1989年〜2019年)。アルゼンチン・メノナイト教会を4つの地域に分け、それぞれ独自の組織、指導体制、会議、活動を行う。

昨年、私たちは改革の進捗について評価を行い、「地の果てまで」宣教するため、改善すべきところを検討し祈り求めました。

私たちのありようと信仰 

謙虚に、かつ真摯に反省するなら、宣教師と教会がつねに強調してきたのは「福音的」であること、つまり男も女も神の子らであり、兄弟姉妹であり、私たちはみなメンバーである、ということでした。公式にはメノナイト教会となっていましたが、アナバプテストの性格は、忠実な先人たちの歩みににじみ出てはいても、明確ではありませんでした。もう一つ別の教派を設けるよりも、私たちは自分をキリスト教徒と位置づけてきました。

しかし現在、私たちはアナバプテストの見地による信仰告白に導きを得て、知識と実践をさらに強化しなければならないと考えます。あらゆる教会団体に共通する問題を私たちも抱えており、解決すべき兄弟との深刻な紛争もあります。ですから、私たちと交わりにある世界の皆さんに祈ってくださるよう、心からお願いするものです。

—マリオ・O・スナイダー、パブロ・スナイダー、ビリー・ヌエシュ、エリベルト・ブエノは、アルゼンチン・メノナイト教会(IEMA)の100周年記念委員会の委員。IEMAはアルゼンチンで最大のメノナイト系教会団体で、唯一のメノナイト世界会議加盟団体。国別データ表を参照。

団体名 福音メノナイト・ブレザレン教会
教会員数33
教会数1
責任者 エステバン・アレヤンドロ・メメトゥ
団体名メノナイト教会共同体 (コロニア・ラス・デリシアス、パンパ・デ・ロス・フアナコス、エル・アルガロバル、ヌエバ・エスペランザ)
教会員数292 + 376+ 14 + 67= 1354
責任者オマール・オニシュク
団体名東部ペンシルベニア・メノナイト教会(アルゼンチン支部)
教会員数7
教会数1
責任者デービッド・ウィーバー
団体名アルゼンチン・キリスト兄弟団
教会員数75
教会数 2
連絡先マリア・カリダード・ペルドーモ
団体名アルゼンチン・メノナイト教会*
教会員数3650
教会数79
連絡先 フアン・シーバー

*はMWC加盟団体

出典:世界統計(2015年版住所録)

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