ベンの両親はわけが分からず、ひどく心配になりました。22歳の息子が病院に連れていかれて精神鑑定を受ける、と電話があったのです。
ベンはいたってふつうの子どもでした。聡明で創造性があり、楽しいことが大好きで、人にやさしい子でした。それが、このところ彼らしくないふるまいをするようになったのです。人を激しく責めたり、被害妄想を抱いたり、何日もろくに眠らなかったり。
学校生活がプレッシャーだと不平をいい、先学期の成績はひどいものでした。友だち付き合いをしない理由を「極秘のプロジェクトに携わっているから」だというのです。
病院の待合室は人でいっぱいでした。ベンもいました。手錠をされ、両脇を2人の警官にはさまれて座っていました。鋭い目つきでしたが、身体は弱々しく姿勢を崩していました。
彼は両親を睨みつけ、俺を警察に突き出そうとしやがった、となじりました。息子がそんなふうに思っていたなんて、と両親はショックを受けました。
彼らがとてもいたたまれない気持ちになったのは、この小さな町の救急病院の待合室にいた人の多くが、彼らの顔見知りだったからです。ベンは双極性障害なのです。
双極性障害とは何か
双極性障害には、躁(そう)状態とうつ状態の二つの病相があります。双極性障害にはいくつかのタイプがあり、躁状態とうつ状態の現れ方に違いがあります。
うつ状態の症状には、抑うつ気分、かつて楽しんでいたことへの興味や喜びの減退、焦燥感、体重や食欲の著しい変化、不眠、疲労感、無価値感や罪責感、集中力の減退、死についての反復思考や自殺念慮などがあります。とアイデアが浮かび、活動的・衝動的になり、逸脱行動(やみくもな買い物やセックス、ギャンブル、暴走行為)に出ることもあります。
双極性障害の人は、幻覚や幻聴、妄想といった精神疾患をもつこともあります。これらの症状は重いため、社会的に機能することができず、入院を要することが一般的です。
教会の対応は.
教会がこの世に対して憐れみの光を照らそうとするとき、心の健康を失いつつある個人や家族にどう向き合うべきでしょうか。教会共同体の第一歩は、苦しむ人の苦しみを認識しそれに寄り添うことです。身体的であれ精神的であれ、教会にいるあらゆる健康状態の人々を包容することに努めるのです。
聖書は私たちに、乏しい人々の世話をせよと命じています(たとえばフィリピ2:1-8、ヤコブ1:22-27、1ヨハネ3:16-18、申命記15:7-11、マタイ25:34-46など)。ホームレスの人々には精神を病む人が少なくありません。双極性障害に苦しむ人の多くは働くことができず、政府の援助があってもせいぜい標準以下の(あるいはもっと劣悪な)住居しか得られず、必要を満たせるだけのお金がありません。
より適応能力の高い人たちでも、学校教育を修了したり、復職したり、ふさわしい仕事を見つけたりするための支援を必要とするでしょう。教会はその人たちが自分で生きていけるよう手助けする方法を見出せるでしょうか。
カナダのマニトバ州には、メノナイト教会が運営するエデン・ヘルスケア・サービスという団体があります。格安ないし一時的な住まいを提供する事業と、地域社会への就労支援事業を組み合わせて行っています。やれる支援、やるべき支援が、まだまだたくさんあります。
キリスト教の根本価値はまだまだあります。愛、ゆるし、修復、包容、裁かないことなどです。これらを、双極性障害やその他の精神病とたたかう人々に適用していく作業に終わりはありません。教会として私たちに限界があるなら、それは私たちに想像力と決意が欠けているにすぎません。
賜物を大切にすること
もし教会が「からだ」であると私たちが本気で信じるなら、各自が共同体に何を提供できるか本気で問わねばなりません。「体のうちでほかよりも弱いと見える部分が、むしろずっと必要なのです…神は劣っている部分をよりいっそう見栄えよくし、調和よく体を組み立ててくださったのです。」(1コリント12:22, 24)
双極性障害を抱える人たちを、私たちは教会のお荷物と考えがちです。しかし、人はみなそれぞれ賜物をもっています。熱意、演技力、弱さを正直に認めること、精神医療現場の経験など、ほかにももっとあるでしょう。
人が自分の居場所を感じられる最良の方法の一つは、参加者となること、他者に提供できるものをもつことです。「からだ」は多くの部分からなり、私たちが多様性を前向きに受けとめれば豊かになるのです。
裁いてはならない
前述のとおり、双極性障害では思考が散漫になり、衝動的・破壊的な行動に出ることがあります。教会では、望ましくない行為や罪深い行為はやめさせるという「きまじめ」なアプローチをとりがちです。双極性障害は複雑ですから、こうしたふつうのやり方で行動を変えさせようとしても通じませんし、難しい問題を提起もします。
そもそも、人が自分の行いに責任がないのは、一体どういうときでしょうか。物質的な要素は感情や人間関係にどんな役割を果たしているでしょうか、たとえば私たちの脳は人間関係にどのくらい影響しているでしょう。選択と寛容についてはどうでしょう、たとえばある人が私たちが困る行動をとることを選んだとして、人間関係を壊さぬようそれを容認すべきでしょうか。
常識の範疇に収まらない行為には、当然の(ときには法的な)結果というものが伴います。「裁いてはならない。裁かれないためである」というイエスの言葉をいかに心に留めるべきでしょうか。医療や司法の現場で、あるいは職場や店先や家庭で、その人の味方をすればいいのでしょうか。
礼拝における心の健康
精神病と診断されることの大きなダメージの一つは、それが差別的な烙印を伴うことです。社会や教会が、不安や誤解から、精神病者への差別を固定化してしまうことがあるのです。
精神の病いを体の病いと同じように丁寧に扱うような、聖書朗読、祈り、讃美、説教が聞けたら、どんなにほっとするでしょう。心の健康について、「あの人たち」ではなく「私たち」という言葉で語り合えたらどうでしょう。
勇気を出して、心の健康のことを憐れみ深く、聡明に、オープンに語ることができれば、教会は、人生や生活が必ずしも順調ではない人たち(それは私たちみんなのことです)が安心して
集える場となっていくはずです。
声に出して語られることで、問題はより隠しだてされにくく、恥ずべきこととされにくく、縛りが緩やかとなります。不安や不安からくる反発を生み出しにくくなるのです。
聖書には、苦しみのうちにある人々を慰める言葉が多くあります。礼拝で用いることのできる資料をリストアップしている精神医療団体もあります。
燃え尽き/疲労を防止する
誰にでも教会に何かを提供できるものがありますが、たくさんのケアと支援を必要としている人がいることも確かです。小さな教会や町の場合、緊急の対応や支援を担えるのは特定の個人(あるいは一握りの人たち)に限られることもあります。そのままでは、この人たちはいずれ疲れ切ってしまうかもしれません。
疲労困憊を防ぐ方法はあります。方法を確立するのはたいへんですが、ケアの質を高め、ケアを提供する人たちの生活の質を向上させることができます。
第一に、ケアを多く必要とする人を支援する人たちのグループを作ります。一人が対応できない時間には別の誰かが対応できるようにするのです。グループは、実際の介助、社会関係、霊的なケアなど、異なる能力や役割をもつ人たちで構成します。
第二に、人間関係の境界線を設定します。たとえば「土曜日は家族で過ごす日」と決めて、支援の仕事に限界を設けるのです。境界線をはっきりとさせ、人間関係を明確でわかりやすくすることが大切です。
第三に、自分の限界を自覚することです。たとえば時間の限界(週に2時間以上は割けない)、得意不得意の限界(食べ物は提供できるけど、話をじっくり聞くのは苦手)、自分自身の状態
の限界(このごろ自分自身がうつに苦しんでいて以前と同じ支援はできない)などです。
教会は、多様で、ユニークで、さまざまな能力や困難をもった人間によってできているのです。そこに私たちはともに集まって、人間としての共通性を探求し、可能性を開花させてともに成長することができるのです。
この旅路を私たちはともに歩み、困難と喜びの絶えないこの世と出会うのです。私たちのあいだにある人間関係を喜びましょう。
ジョアン・クラーセンは結婚・家族療法と神学の修士号をもち、マニトバ州のエデン・ヘルスケア・サービス勤務をへて、現在はウィニペグ地域保健局の精神医療臨床家として個人でも開業。
本稿はミーティングハウス(カナダとアメリカのアナバプテスト編集者の団体)のために書かれたものを再掲した。
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