The Lord came near (日本語)

    私は1934年、田舎の禅寺の三女として生まれました。私の父は、曹洞宗の本山である永平寺で厳しい修行を積んだ父でしたので、いつも厳しく、みんなの模範となるように、徳を積むようにしつけました。

    床の間には「巧言令色仁少」の掛け軸がかかっていたのを覚えています。私はこのような父の下で道徳的には模範生の如く育ったと思います。父は「お寺はいつも村の人の安らぎの場だよ、三界に家なし」とよく言っていました。それで私には家がないと思いましたので、いつも川や山で遊んでいました。遊び呆けた私に、池にう作った夕月が早く帰れと、走っても走っても追いかけてくる月を不思議に感じた子供時代でした。
 
 遊びまわる私に、母親は、柱にこんな張り紙をしていました。「よく遊び、よく学べ」。でも「よく遊び」は大きい字でしたが、「よく学べ」は小さい字でした。また、母がこんな歌を口ずさんでいるのをよく覚えています。「金剛石も磨かずば玉の光はそわざらん。人は学びて後にこそ、真の徳は表れるれ」
 このような両親の下で育った私は、表面的には、「道徳の鎧をかぶった模範生」になっていたと思います。

 仕事は福祉畑で、十風満帆な毎日を過ごしていました。二重数年は障害児療育に取り組み、私は他に先んじて、ルード法という言語治療(プレスピーチ)を学び、取り入れ実践していました。そんな充実した矢先、私の人生で一番悲しいことが起こったのです。それは1983年の愛する一人息子の死でした。その時が、主が私に近づいてくださった最初の時でした。

  しかし、それにもかかわらず、私の自我は砕かれませんでした。私は人生に負けたくない、弱さを見せたくないと頑張り続けました。そんなふうにして仕事一途に生きていったのです。

 しかしそんな私に二度目に主が近づいて来られたのは1989年でした。あれは茹だるような真夏の夜でした。私は県の監査のことで上司とトラブり、怒りに心を乱し、夜遅くの町を、車で走り続けていました。ふと気づくと、深夜の教会に車が停まり、そのとき、私は教会の門を叩いていたのです。そして私は遅い時間の迷惑も忘れ、自分の正しさを延々と牧師にぶつけていました。真夜中の2時頃だったでしょうか。突然、頭上に激しい雷鳴が響きわたり、その恐ろしさに私は打ちのめされてしまったのです。

 ことばを失った私に、牧師は「どうしましたか」と静かに声をかけてくださったのです。「聖書を読みましょうか」と。恐ろしさに呆然として私に、牧師は主のことばを伝えてくださったのです。それはローマ12章10-20、13:1-3でした。

 自分がすべて正しいとさばいてばかりいる私のことが、聖書のなかに書いてあったのです。傲慢で自分中心の私に、主は、再び雷鳴をもって近づいてくださったことが、この時よくわかりました。
 白々と東の空が明ける朝方、清々しい気持ちで家に帰ったのを覚えています。この朝は日曜日でしたので、この日より教会に行くようになりました。言うまでもなく、月曜日の朝の職場が変わっていたのです。主は療育センターの子供たちを祝福してくださいました。8ヶ月後、1990年のイースターに、私は洗礼を受けました。

 三度目に主が近づいてくださり、新しい道を備えてくださったのは、クリスチャンになって2ヶ月目、私が5時早天で祈っていた時でした。私は静かに、そっと肩を叩かれたような気がして、後ろを振り向くと、そこに一枚のポスターがかかっていました。
 その言葉がルカ10章2節でした。「美りは多いが働き人は少ない。だから収穫の主に収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 「主は何を言われているんですか」と牧師にお聞きすると、「あなたのご奉仕を望んでおられるんですよ」と言われました。ご奉仕が何であるかまだわからない私でしたが、咄嗟に「私にできますか」と聞いたのでした。牧師は「仕事を辞められますか」と言われ、即座に「辞めます」とはっきりと答えていました。

 宿場をやめるために、時間はかなりかかりましたが、3年後の1993年にようやく退職し、1993年、日本メノナイト・ブレザレン教団の神学校である福音聖書神学校に入学することができました。それと同時に、私は教会でのフルタイムスタッフの奉仕もスタートしたのです。

 主の声かけに気づかずに近づいてくださったのも感じなかった罪深い私ですが、それをご存じの上で息子の死より10年目、新しい道を備えてくださったのです。

 そんなふうに主が近づいてくださったにもかかわらず、私は教会スタッフの奉仕も、自分の経験に頼り、自分中心にいろいろなものに、取り組みチャレンジしていきました。
 
 こんな私に主は再び近づいてくださったのです。それは私が何とかしてあげたいと、一人の女性のカウンセリングをしたのです。これは私にとって重くてかなりダメージを受け、他の疲労も重なり、ついに2002年8月、劇症肝炎になってしまったのです。これは自己免疫肝炎というもので、通常の肝臓の数値が40なのですが、それが1450まで上がってしまったのです。

 いまだに残っている私の傲慢、自我、偽善など、主の望まれない生き方をしていた私に、愛のムチをもって臨まれた主の憐れみを苦しみのなかで知りました。「三日の生命」と医者から宣告された私、悶え苦しんでいた私は、ベラベラになった肝臓の中に、固まる血を取り去ってくださる主を、おぼろげに見たのです。

 「憐れみ」という言葉がありますが、苦しみを共にしてくださる主の愛に助けられ、私は一命を取り留めることができたのです。私は、付き添っている姪に、早天祈祷会をされている牧師さんにその事を伝え、感謝の祈りをして頂きました。ステロイドの治療に完治するまでに5年かかり、苦しみは続きましたが、心はとても平安でした。聖書にあるヨブも苦しみの中て主に出会ったのです。

 劇症肝炎という試練の中で私は、この目で近づいて来られた主の御姿と御声に気づき、初めてしっかりと受け止めることができたのです。主は私に答えるために、この苦しみのなかで、御声をかけられたのです。何とすばらしい神のお取り扱いでしょうか。私には、この方法しかなかったのでしょう。主は今も生きておられます。主イエス様が私たちをどんなに愛しておられるかを、私の体験をお証させて頂きました。

 最後に、私の実家のことをこれからの夢の話をさせてください。10年前に住職の兄の奥さんが自らキリスト教のホスピスを願い、転院し、数日後安らかに召されていきました。住職の兄も同じ病院で手術を受け、私は兄の看病をしながら、イエスさまの話ができました。兄も、手術前に、医者と看護師が祈ってくれたことを喜んでいました。ここにも不思議な神の導きがありました。私の姪もクリスチャンになり、父親も教会も教会で主を信じ、召されていきました。
  
 私の夢ですが、私はお寺でもそうであったように、家を開放し、お客さんをもてなすことを喜びとしていきたいと願っています。詩篇133篇

—Mineko Nishimura is a member of Mukogawa Christ Church, a Nihon Menonaito Kirisuto Kyokai Kaigi (Mennonite Brethren) church in Japan. 

 

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